真田一族というと、NHK大河ドラマ真田丸が話題であった。
真田というと、真っ先に頭に思い浮かべるのは真田幸村ではないだろうか。
真田丸でご存知だと思うが、真田幸村は諱(いみな 本名のこと)を信繁(のぶしげ)といった。幸村と名乗っていた時期もあったが、ほんの一時期だけであったようである。

また、真田というと、真田十勇士であろうか。
猿飛佐助や霧隠才蔵、三好清海入道などが有名である。
これらの人物は物語の中のキャラクターであり、実在したわけではないが、真田家は忍を抱え、忍使いの名手でもあった。
古来より情報戦に長けており、巧みに情報を操っていたようだ。

真田家の出自は、信濃国小県郡(しなのこくちいさがごおり)の氏族、滋野氏を祖としている。
清和天皇の第4皇子貞保親王(さだやすしんのう 陽成天皇の同腹の弟)が信濃国海野庄に住し、その孫である善淵王が905年に醍醐天皇より滋野姓を下賜されたことに始まる。
この滋野氏から海野氏、称津氏、望月氏が出で信濃国小県郡や佐久郡を中心に栄えた。

真田氏は、この滋野氏嫡流海野氏から分家した一族であると言われている。
家紋は六文銭を表紋、洲浜紋、雁金紋を副紋として所用していた。

現在でも長野県東御市深井には、同族の深井氏の末裔が居住しており、六文銭を所用している。

さて、真田氏の祖は海野氏幸の子、二十七代海野信濃守幸棟の子として永正十年(1513年)海野幸隆が産まれ、この幸隆が真田の地を領有することになったため、真田幸隆と名乗ることになった。
と言われているが、実のところ定かでない。
諸説があり、研究が進んでいないようである。
ちなみに、幸隆といえば、信繁、信之の祖父である。

真田幸隆の子、真田昌幸(幸綱)の頃まで現上田市真田町の真田本城周辺を拠点とし、同地にある居館を本拠としていた。
昌幸は、信之、信繁の父であるが、この昌幸の兄であり嫡男であった信綱と次男昌輝が天正3年(1575年)の長篠の戦で討死すると、三男であり武田氏家臣の名門、武藤家を継ぎ武藤喜兵衛を名乗っていた昌幸が真田家の家督を相続した。
その後、昌幸は本拠地を真田から上田に移し、上田城を築城する。

真田家もご多分に漏れず、肉親同士徳川方と豊臣方にわかれ、最終的に大名として続いたのは信之の家系であった。
上田から信州松代に移封され、10万石の大名として明治を迎え、現在に至っている。

関ヶ原の戦の折り、徳川秀忠が上田城攻撃している最中、上田市内の願行寺の住職と碁を打っていたと言われているが、真田家移封の際に願行寺も松代に移したため、上田と松代にそれぞれ願行寺が存在する。

真田一族本領である真田の里には、旧菅平有料道路沿いに真田本城跡、真田家居館跡、猿飛佐助が修行したという角間渓谷入口などが並ぶ。
角間渓谷には、角間温泉があり、鉄分を含んだ茶色い湯が湧き出ている。岩谷館という旅館が一軒あり、静かで風情があって、正に隠れ家的な宿だ。
この角間渓谷には、猿飛佐助の修行場であったという話の他に、この渓谷にある最大の岩谷洞窟は、巨魁毘邪王(きょかいひやおう)の棲で、初代征夷大将軍であった坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が四道将軍(しどうしょうぐん)を命ぜられて討伐に来たとの伝説がある。

真田家は現在でも続いており、現在の当主が上田市で行われている真田まつりの際に甲冑を着用して馬上の人となってご参加されておられる。(上田藩は真田家が松代へ転封になって後、仙石家、松平家が藩主として入封しているのだが)

ちなみに、上田城は現存する櫓のみが江戸時代に建てられたものであるが、正面に建てられている門は最近復元されたものである。
それ以外に建造物は存在していないが、実は既に仙石氏が入城した時から本丸にも二の丸にも建造物は存在していなかったという。
天守閣も天守台も上田城には存在しない。
一時期、仙石氏が改築しようとしたが、幕府の許可が下りず、そのまま松平氏入封後も建造物が建てられることはなかった。
現在、上田高校がある場所に藩主の屋敷があったのだが、政務は全てそこで行われていた。
今でも門や塀、濠や土塁など藩主屋敷跡の遺構が残っている。

城郭好きの浪漫を壊すようだが、実際のところ江戸城ですら既に江戸時代初期から天守閣は焼失したまま再建されることはなかったし、松の大廊下で有名な江戸城本丸御殿も幕末にはとっくに存在していなかったようである。

意外と歴史の事実を紐解くとがっかりすることが多いものだ。

有名な真田家も、本当の出自や家系は定かでないのが実情である。
今後、まだまだ研究を進める必要があろう。