甲斐武田家滅亡

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甲斐国、現在の山梨県を掌握し、中部東海にかけて覇をとなえた、武田信玄公で有名な武田家のお話である。
天正十年(1582年)3月11日午前11時頃、武田勝頼公ご自害により武田家は滅亡した。
と、いうのが定説である。
まずは甲斐武田家を説明しよう。
武田氏は河内国壷井(現 大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の棟梁 源頼義の三男源義光(新羅三郎)を祖としている。
義光の祖父源頼信が長元二年(1029年)に甲斐守に任官され、頼義、義光へと継承されるが、頼信、頼義は現地には赴かず在京のままであった。
義光は初めて甲斐へ着任し、土着したと言われている。
甲斐武田氏は清和源氏の河内源氏系甲斐源氏の宗家であった。安芸国、若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があった。
武田家の家宝は御旗と楯無しの甲冑である。御旗は後冷泉天皇から下賜された日章旗、楯無の甲冑は鎧のことで、源頼義が御旗とともに後冷泉天皇から授けられたものであると言われている。
十六代目当主 武田大膳太夫信濃守源晴信入道信玄公は殊に有名であり、知らぬ人はいないであろう。
この信玄公の代で飛躍的に領土を拡大し、内政を充実させ、父つまり暴君といわれた十五代当主の武田信虎公を排除し、善政を敷いたことで有名である。
信玄公は甲州法度を定め、治水治山を行って災害を防ぎ、金山の開発で経済を発展させ、領民から慕われた名君であった。
京に上る途中、駿河に於いて信玄公は病死される。
信玄公が後継者として指名したのが、諏訪頼重の息女であり信玄公の側室であった諏訪御料人(乾福院殿)との間にできた諏訪四郎勝頼公である。
信州諏訪を本拠とする諏訪神家の棟梁であった諏訪頼重の後継者として育てられていたため、諏訪姓を名乗り、諏訪家代々の通名である頼の字を承継していた。
勝頼公は信玄公の四男であり、且つ諏訪家の後継者であったにもかかわらず、なぜ甲斐国主武田家の後継者になれたのか。(勝頼公は諏訪家後継者であったため、嫡男太郎信勝公が元服して武田家の後継者となるまで陣代、つまり後見人として武田家棟梁の座に就いたのが本当のところ)
それは、長兄義信は信玄公暗殺、つまり謀反の罪により切腹。次兄である竜宝は生まれつき盲目であったため出家。(信州小県郡海野の豪族である名族海野氏を継ぎ、海野竜宝(龍芳)と称していた。信州上田に竜宝開基の竜宝寺があり、暫く居住していたという)
そのため、四男である勝頼公が後継者として指名されたと言われている。
その勝頼公であるが、天正10年(1582年)2月、織田徳川連合軍に敗れ、御親類衆や譜代の重臣らに裏切られて僅かな手勢のみ引き連れ天目山を目指したが、途中の田野で正室の北条夫人、嫡男の信勝と共に自刃し、ここに武田家は滅亡した。
と、ここまでは一般に知られた歴史である。

実は、勝頼公は妻子共々落ち延び、四国の高知にて繁栄し、今でも子孫が続いておられる。現地には武田勝頼土佐の会が存在し活動している。
勝頼公一行は、当時の土佐の武将香宗我部氏を頼って落ち延びた。
土佐大崎村川井に居住し、大崎玄蕃(おおさきげんば)と改名し、慶長14年(1609年)8月25日64歳で逝去された。
勝頼公の嫡男武田信勝公は、大崎五郎と改名し生きながらえた。
その他にも勝頼公の息女ゆす姫、勝頼公の次男武田正晴、勝頼公の孫武田信房等の墓が存在する。

香宗我部家は、甲斐武田家の分家である若狭武田家の末裔であり、古くから土佐地に根付いていた。(武田姓から香宗我部姓に変えた)

歴史は、その時代に生きていた者たちによって書かれ、また書き換えられてきた、真実はその時生きていた当事者にしか分からないだろうが、今に残る一部の断片から、真実はある程度証明されるのである。

時代の流れの中で真実は埋もれ、噂と伝説だけが独り歩きしてしまう。
一級の資料にも真実が記されているとは限らない。
考えてみれば、たかだか70年前のことですら既に事実関係が分からない歴史がある。
300年、1000年前の真実がわからないのは当然のことである。
だから歴史は面白いのではないだろうか。

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