大名の生活

大名とは江戸時代に徳川幕府によって明確にその基準が定められ、一万石以上の所領を幕府から与えられていた藩主を指す。
一万石未満(いちまんごくみまん)の武士で幕府直属の者を直参(旗本)という。
大名家の住まいは国元(領地)に城や陣屋、庭園があり、江戸表には上屋敷、中屋敷、下屋敷、中には蔵屋敷、そして京には京屋敷を所有している家もあった。
そして参勤交代、全国の大名家が二年ごとに各領地から江戸に参勤し、一年経って領地へ引き上げる制度。
正室と嫡子は江戸に常駐しなければならず、側室やその他の子に関してはその義務はなかった。
つまり、謀反防止の為の人質ということになる。
三代将軍徳川家光の頃に制度化されたが、これが大名家にとっては非常に痛手であった。

さて、大名つまり藩主は、一般的に朝7時に起床する。
小姓が起こしに来る。
洗顔、歯磨き、着替え一切は小姓が行う。
その後、親に挨拶に出向き、ご先祖の御霊屋で礼拝。
朝食を摂るが、このとき朝食を摂りながら呼称が御髪(おぐし)を整え、医師(御典医)の健診を受ける。
その後は政務を執り、ほぼ午前中で終わり、午後は自由時間になるが、国元ではそれなりに忙しかったようである。
主に学問、読書、武芸の稽古、馬術、江戸表では江戸見物に出かけたり、国元では供を連れて領内を馬に乗って走るなどしていた。
ただし、舟遊びや遠国旅行などは禁止、若しくは幕府の許可が必要であったという。
午後六時夕食。
食後は自由(入浴等)。
午後十時屋敷奥にて就寝。

江戸表においては、特に老中や若年寄などの役職に就いていなければ、毎月朔日(ついたち)、15日、28日及び五節句(人日の節句(一月七日 七草の節句)・上巳の節句(三月三日 桃の節句)・端午の節句(五月五日 菖蒲の節句)・七夕の節句(七月七日 笹竹の節句)・重陽の節句(九月九日 菊の節句))に江戸城に登城することに決まっていた。

特に老中や若年寄、奉行や目付等幕閣の役職に就いていない大名は、毎月朔日(ついたち)、15日、28日及び五節句に江戸城へ登城することが決まっていた。

午前8時までに江戸城本丸御殿の所定の詰所(石高や身分によって控室が決まっていた)にいる必要があるため、登城日は起床時間等を繰り下げていた。
午前10時ごろ、白書院で将軍の謁見、再び詰所に戻り、江戸城下城は正午頃、屋敷に戻る途中、老中や御三家(水戸徳川家、紀伊徳川家、尾張徳川家)に挨拶回りを行った。
国元在国の場合は、起床、朝食の手順は江戸出府中と同様。
屋敷(国元では陣屋または御殿)の表に出るのは8時〜9時にかけてが一般的。
そして政務総覧。

余程のことがない限り午前11時には政務は終了した。
江戸時代の武士は、午前中で業務が終了した。
これは、旗本の妻が日記にしたためていた記録にも明確されている。
既に今でいう働き方改革がなされていたということである。

ちなみに、藩主(殿様)の食事は一般的に二の膳まであった夕食と、一汁一菜の質素な朝食であり、昼食は摂らなかったのが一般的。
通常は二の膳まであっても大して豪華ではなく、白米、汁物、焼き物、煮物、おひたしのようなもので、焼き物と言えば魚や鴨が主で肉(四つ足)はほとんど食さなかった。
毒見を経て供されるため、藩主の元に運ばれてくる頃にはすべて冷えきっていた。
温かいものを食したことはほとんど生涯を通じてなかったのではないだろうか。
そして、それも全て食べてしまうと下々の者に行き渡らないため、完食することも、おかわりすることもできなかった。
殿様はいつもひもじい思いをしていたようである。

風呂、小用、大便の時にすら常に小姓が近侍し、時には美形の小姓は寝所で殿様と一緒に床に入った。
女性と交わるときは侍女が次の間に控えているなど、常に監視の目に晒され、一人でいるということがほとんどなく、非常に窮屈であったようだ。
中には精神疾患にかかってしまう殿様もいたのではないだろうか。

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