大名にとって面倒な参勤交代

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参勤交代(さんきんこうたい)とは、幕府に対して謀反、反乱を起こさせないために出来た人質制度。
つまり、当時の武家は軍隊であったため、常時武力を以て統治する軍事国家であった。
いつでも将軍に刃を向けることが可能であったため、このような制度が生まれたのである。
その起源は結構古く、鎌倉時代に遡る。

参勤交代とは中央庁に出仕して主君(征夷大将軍)に拝謁し、一定期間中央で生活し、その後領地に戻るというもの。
江戸時代、三代将軍徳川家光の頃に制度化され、武家諸法度(ぶけしょはっと)に法的権限を以て明記された。
元々は、藩主は2年江戸表で生活し、その後2年は国元に帰って生活する。
正室と嫡男は江戸屋敷で暮らすことを義務付けられた。
つまり人質である。
江戸では、上屋敷、中屋敷、下屋敷を大名家は所有しており、大藩においては蔵屋敷や、京に京屋敷なども所有していた。
上屋敷は本邸であり、江戸城近くにあり、中屋敷は主に藩主の隠居所として使用された。
下屋敷は庭園などを造営した別邸であり、今でいうところの別荘のようなものだった。
東京には大名庭園が多く残されている。

参勤交代の、もうひとつの理由としては、外様大名を江戸から遠くに配し、親藩や譜代大名を江戸の近くに移封した。
譜代大名などは、外様大名の監視も行っていたため、外様を囲むように配置されることもあった。
さて、その理由だが、つまり外様大名の財政を圧迫させ、反乱の確率を減らすためであった。
つまり、遠国から江戸までの旅費を費やさせるため、わざと遠くへ配した。
そんな工夫が江戸幕府三百年栄えさせたのであろう。

ちなみに、参勤交代時に街道を大名行列が進む際、「したにー、したに」と言って整然とゆっくり行列が行軍したのは、江戸市中のみで且つ御三家(水戸、紀伊、尾張)だけができることであり、沿道の者たちは左右に避けて道中を空け、行列が過ぎるまで身を低くしなければならなかった。
あんな歩き方をずっとやっていたら、江戸に着くのに三年も五年もかかってしまうだろう。

近年、小藩の参勤交代をコミカルに描いた映画があったが、正に小藩の参勤交代の大変さを如実に物語っていると思う。

参勤交代を行うためには、幕府によって人数や隊列の順序、江戸までの道のりが厳しく定められており、その規定に従わなければならなかった。
人数を整えるために日雇い人足を集めたり、道具を貸道具商から借りたり、江戸までの宿場で本陣や家臣らが宿泊する脇本陣の宿泊費を支払い、馬を借り、中には船で参勤する藩もあった。
そんなことだからほとんどの藩は借金まみれであり、それが江戸幕府の勢いをそいでしまったのかもしれない。
大名の権力を抑えるための制度であったが、同時に大名家の力が衰えることによって武士の時代の終焉を迎える事にもつながってしまったという皮肉なことになってしまった。

考えてみれば平時において武士の出番はない、武士は軍だからだ。
軍人の政治であったから、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府は先軍政治であり軍国主義だったということだ。
いつまでもそんな時代が続くわけがない。

本来は、征討軍を朝廷の命で組織する際の軍司令官として将軍が任命されたのであり、征夷大将軍(東北方面軍司令長官)が有名だが、その他にも鎮西大将軍(西国方面司軍令長官)がった。
天皇の軍隊、それが武士だった。
いつしか天皇をも凌ぐ力を以て朝廷をないがしろにし、政治の実権まで握ってしまったということは、まあ行き過ぎであったと言えよう。
だから徳川慶喜が行った大政奉還は正しかったということである。

つまり幕府とは、ある種のクーデターと言っても過言ではないのではないだろうか。

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