武田信玄 1

甲斐、今の山梨県の武将、武田信濃守晴信(たけだしなののかみはるのぶ)公のことである。
なぜ、武田晴信という名があるのに武田信玄と呼ばれるのか、それは、当時の武将は僧籍に帰依することが多かったからだ。
武田信玄は剃髪して僧籍に入り、幾山信玄(きざんしんげん)と号した。
上杉謙信は長尾(上杉)弾正少弼輝虎(ながお(うえすぎ)だんじょうのしょうすけてるとら)は不識庵謙信(ふしきあんけんしん)、黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)は如水円清(じょすいえんせい)、斎藤山城守利政(さいとうやましろのかみとしまさ)は道三(どうさん)など。

武士は姓・氏・苗字・官職・通称・諱(いみな)を称していた。
例えば、織田信長の場合は、織田上総介三郎平朝臣信長、武田信玄は、武田大膳太夫信濃守源朝臣晴信入道信玄、徳川家康は、徳川次郎三郎源朝臣家康となる。
よく時代劇などで諱を読んでいることがあるが、それは絶対にあり得ず、必ず官職か通称で呼んでいた。
また、姓は源・平・藤(藤原)・橘の何れかの血筋を名乗ることとしていた。

私は、この武田信玄ほど素晴らしい方を知らない。
徳川家康も、この武田信玄の影響を大いに受けていたといわれている。
故に、武田家が滅びた後も、徳川家康は武田家の遺臣を大勢召し抱え、旗本として取り立てている。
佐渡金山を開発した大久保長安(おおくぼ ながやす)、五代将軍徳川綱吉の側用人で絶大な権力を振るった柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)も武田家の遺臣であった。
それどころか、武田家を再興している。
武田信玄の二男武田(海野)信親(たけだ(うんの)のぶちか)の家系が徳川幕府の旗本に取り立てられ表高家に列した。
武田信親は、盲目であり、出家して龍宝(りゅうほう)と号し、信州海野家の名跡を継ぎ海野龍宝と名乗っていたが、その子孫が徳川家に召し抱えられたのである。
ちなみに、龍宝は浄土真宗であったため妻帯していたというわけだ。

武田信玄は、とにかく人を大事にした。
人さえしっかりしていれば城など不要、人の力、結束力そのものが城に等しいとして城に住まなかった。
甲府にある今の武田神社は、元々武田家の居館、躑躅ケ崎の館があった。
その館に住し、政庁としていたのである。

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