武田信玄 2

領民を愛し、治山、治水に力を尽くし、金山開発を進め、甲州法度(憲法)を施行し、豊かな領国経営を行った武田信玄。
特に笛吹川の信玄堤(しんげんつつみ)は有名であり、その技法は現在でも洪水対策として受け継がれ、研究されている。

人は城 人は石垣 人は濠 情けは味方 仇は敵なり

という有名な言葉が残されている。
武田信玄そのものを語る詩(うた)である。

一方で武田信玄は、実の父である武田信虎を国外追放したことや、嫡男義信に切腹を命じたことから、親不孝で血も涙もない荒ぶれた極悪非道な人物であると言われ、よくライバルであったと言われる上杉謙信と比較され、上杉謙信は義の男として清廉潔白な善人、武田信玄は肉親を殺した悪人であると言われることがあるが、それは大いなる誤りである。
武田信玄こそは義に生き、人情に厚く、領民から慕われ、戦も外交も内政も全てにおいて素晴らしい手腕の持ち主であった。

武田信玄の悪評のもとになっている実父追放と嫡男殺害について説明をしたい。

まず、武田信玄の父武田左京大夫陸奥守信虎(たけださきょうだいゆうむつのかみのぶとら)は、甲斐国守護職第十八代目当主であった。
武田信虎は、武田信玄の弟武田典厩信繁(たけだてんきゅうのぶしげ)を偏愛し、武田晴信の廃嫡を考えるようになったり、領民に軍資金の重い負担を課したり、妊婦の腹を裂いたり、経済の悪化による領民の疲弊の改善を行わないなど、武田信玄が国外追放した理由は、健全な政を行うためだったのだ。
領民は武田信虎の追放に諸手をあげて喜んだという。

武田信虎は、娘婿の今川義元に会うため駿河に行った留守に国境を閉鎖して武田信虎を強制的に隠居させた。
その後は今川家に寓居し、81歳で死去した。
息子である武田信玄よりも長く生きたわけである。
晩年は武田信玄の三男武田逍遥軒信廉(たけだしょうようけんのぶかど)の居城であった信州高遠城に身を寄せていた。

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