武田勝頼-2

武田勝頼が敵兵に包囲されていたところに、武田家臣高坂何某が乱入し、自ら主君である武田勝頼を自称し身代わりなった。
勝頼は、武田家の末裔である土佐の香宗我部(こうそかべ)氏を頼って落ち延び、大崎玄蕃(おおさきげんば)と名乗って天寿をまっとうした。
香宗我部家は甲斐武田氏の分家若狭武田氏の一族である。

前述の通り勝頼は天正10年(1582年)天目山で自刃したことになっているが、土佐大崎村川井(現 高知県仁淀町大崎)に住し、大崎玄蕃と改名して慶長14年(1609年)8月25日64歳で逝去、鳴玉神社に葬られると、子孫の家に残る系図に記されているという。

勝頼所用の剣花菱紋があしらわれた手鏡が、勝頼が建立したと言われる大崎八幡宮に残されており、この手鏡と同型のものが、勝頼の母の出身地、長野県岡谷市の小坂観音院にも残されている。
勝頼の長男 信勝、その子 信房、勝頼の娘 梼(ゆす)姫、次男 正晴、四男 勝季、次男と四男の母 三枝夫人(美津岐夫人)の墓が今もなお残されており、勝頼の子孫といわれる家系も現存しているそうだ。
系図には甲斐天目山で自刃したのは誤りであると記されているという。

また別の機会にこの件は記したいと思うが、とかくこういった伝説は残るものだ。
安徳天皇生存説、豊臣秀頼生存説、明智光秀天海大僧正説、源義経チンギス・ハーン説等々。

いま、我々が一般的に知り得ている歴史の多くは、時の権力者によって捏造されているものがほとんどであり、真実でないことが多いのも事実だ。
それ故に、生存説や、突拍子のない話が生まれる訳で、裏を返せば真実とは正に伝説の方なのかもしれない。

個人的には伝説に真実をもとめているのだが。

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