「豊臣秀吉」考

  • URLをコピーしました!

百姓の身から織田信長に仕え、信長の草履を懐で温めておくなど、機転が利き要領がよく、頭も良かった豊臣秀吉であるが、果たして本当に一階の百姓であったのか、一階の百姓から武家に採用されてトントン拍子に出世するなど少々考え難い。
百姓は百姓でも貧乏な水飲み百姓ではなく、土豪ではなかったかと思われる。
ドラマや映画では、薄汚れた貧乏百姓のように描かれ、どうもそのイメージが定着してしまっているが、史実とは些かかけ離れているようである。
また、足軽であったとする説もあるが、土豪として地域一帯の村々の一族郎党を率いていたのではなかろうか。
そもそも、秀吉の父である木下弥右衛門の名の通り、既に木下という姓があり、弥右衛門(右衛門)という立派な官職名があるわけで、そこから察するにそれなりの家柄であったことが伺える。

但し、出自については諸説あり、名もなき下層民の子であったとか、僧侶の子であったとか、有名な人物でありながら謎が多い。
また、指が6本あったという話もあるが、これはどうやら本当らしい。
晩年に6本指の記述の削除を命じ、肖像画なども修正させたり描かせなかったという。
弥右衛門とは7歳で死に別れ、その後、母のなかは竹阿弥と再婚するも、秀吉と折り合いが悪く、秀吉は放浪の旅に出ることになるのだが、ここでも実は竹阿弥が実父ではなかったか等の話もあり、いたって釈然としない。

豊臣秀吉は尾張国愛知郡中村郷にて天文6年(1537年)2月6日、木下弥右衛門となかとの間に長男として生まれる。
木下藤吉郎と名乗り、今川家家臣である松下之綱(まつした ゆきつな)に仕える。
天文23年(1554年)頃、織田信長に小者として仕え、清州城の普請奉行や台所奉行などを自ら引き受けて成果をあげていった。
永禄4年(1561年)8月、浅野長勝(あさの ながかつ)の養女ねね(おね)と結婚。
足軽大将から侍大将、城持ち武将にまで出世し、誠心誠意主君である織田信長に仕えるが、天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺にて明智光秀の謀反により、主君織田信長は討たれてしまう。

しかし、実は本能寺の変は、豊臣秀吉が裏で糸を引いていたとの説もあるが、確かに用意周到に秀吉が天下を取れる道筋が出来上がっていたように見えなくもない。
中国大返しの尋常ではない速さ、清州城において居並ぶ先輩武将達を前に信長の嫡男織田信忠の子である三法師を抱いて自らの正当性を唱えた図々しさ、謀反人とされている明智光秀を成敗した素早さ等々、尋常では考えられないような事象が次々と起こった事になる。

羽柴姓を名乗り、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から豊臣氏を賜姓された。
藤原氏として関白に任じられたが、その後のことはご承知の通りだろう。

主君であった信長の姪である淀君(茶々)を側室として溺愛し、子ができないと諦めたところに子が出来てしまったため、後継者と決めていた甥の豊臣秀次とその一族をことごとく殺し、
朝鮮出兵の号令を発し、好き勝手に生きて慶長3年(1915年)8月18日62歳で死去した。
その後の豊臣家は滅亡へと歩みを加速する。

キリシタン弾圧、刀狩り、検地等功績を多々残したが、負の遺産も多かったことも事実である。
秀吉の子、秀頼の血筋が今でも密かに伝わっているとの噂もあるが、そのことについてはまた別の機会にお話したい。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

シェアしていただけると有り難いです!
  • URLをコピーしました!
目次