江戸時代に火付け、盗賊、賭博を取り締まった機関が火付盗賊改方であり、元々は臨時の機関であった。
旗本(徳川将軍直属の家臣でお目見え以上(将軍と対面できる)、お目見え以下の家臣を御家人(ごけにん)という)の中の御先手弓・筒頭(おさきてぐみゆみ・つつみがしら)から長官が選出された。
幕閣中枢の若年寄(わかどしより。老中(ろうじゅう)の下の役職)配下であった。
御先手とは、戦の際に先頭に立って敵陣を突破する軍役のことであり、最も強の者の集団であるといわれていた。
その頭が火付盗賊改方長官に任じられ、本職である御先手頭との兼務であるため、加役(かやく)とも呼ばれた。
特に池波正太郎先生の小説、鬼平犯科帳の主人公、長谷川平蔵宣以(はせがわ へいぞうのぶため)が有名である。
火付盗賊改方は窃盗、強盗、放火に対する捜査権を持っていたが、裁判権は認められていなかった。
町人、武士、僧侶も疑わしき者を容赦なく検挙することが認められており、手向かいする者に対する斬捨て御免の権限も有していた。
寛文5年(1665年)に設置されるものの、火付盗賊改方は常設ではなく、治安の乱れ具合や社会情勢に応じて設置される役所であったが、江戸幕府後期以降は常設となったようだ。
御先手組の組織は、与力(よりき)5~10騎、同心30~50人であり、その人数がそのまま加役に従事した。
当初は、御先手組頭の自宅屋敷を役所として使用していたが、その後、役所が設けられることとなる。
江戸町奉行所が役方(文官)、火付盗賊改方は番方(武官)であり、今で言う武装警官(警察軍)として設置されていた。
文久2年(1862年)から先任制となり、248代目火付盗賊改方長官の慶応2年(1866年)まで設置されていた。
最後の長官は、戸田与左衛門正意(とだ よざえもんまさおき)であった。