信州松代 海津城跡

武田信玄と上杉謙信が五回に渡って合戦を行った信州川中島。
川中島の前線基地として武田信玄が築いた城である。
実際に築城したのは武田信玄の配下、山本勘助であると言われている。
初代城主は武田信玄の寵童であった高坂(香坂)弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょうまさのぶ:またの名を 春日源五郎虎綱(かすがげんごろうとらつな))であった。
川中島四郡(更級郡(さらしなぐん)、埴科郡(はぎしなぐん)、高井郡(たかいぐん)、水内郡(みのちぐん)の領国支配の拠点であった。

天正10年(1582年)3月、武田氏滅亡後は、織田信長の家臣 森長可(もりながよし)が城主となった。
天正10年6月、本能寺の変により織田信長が死去すると一時的に上杉氏の支配となるが、上杉景勝(うえすぎかげかつ)が会津に転封後は、豊臣秀吉の配下、田丸直昌(たまるなおまさ)が城主となる。

江戸時代に入り、慶長5年(1600年)には、森忠政(もりただまさ:森長可の弟)が十三万七千五百石で入封、その時に待城(まつしろ)と改名された。
慶長8年(1603年)松平忠輝(徳川家康の六男)が十四万石で入封し、元和2年(1616年)松平忠輝改易後、松平忠昌(徳川家康の次男 結城(松平)秀康の次男)、酒井忠勝(さかいただかつ)と入封後、元和8年(1622年)上田城より真田信之(さなだのぶゆき:真田昌幸(さなだまさゆき)の嫡男)が十三万石で入城し、松代城と改められ、松代藩の藩庁として真田氏の居城となり、明治維新を迎える。
明治五年(1872年)廃城後、畑、遊園地を経て、真田幸治(さなだゆきはる)氏より本丸が寄付されて整備され、濠、石垣、門などが復元された。

城外に御殿が現存しており、国の史跡に指定されている。

真田氏は上田から入封の際、真田家所縁の寺院、蕎麦職人等を連れてきたと言われる。
そのため、上田市にある寺院名と同じ名称の寺院が存在している。

初代藩主真田信之は91歳まで現役藩主として務め、93歳で死去した。
真田信之隠居所の寺院跡に、霊屋(大鋒寺真田信之霊屋)が建てられている。

江戸時代の海津城の主は真田家。
真田家と言えば、真田幸村(信繁)と六文銭、そして真田十勇士が有名だ。
そして、真田家と言えば信州上田となるが、江戸時代初期には既に領地替えで信州松代に転封していた。
明治維新まで松代藩主家として続いた真田家十万石は、真田幸村直系ではなく、幸村の兄、真田信之の家系である。

そもそも真田家は、滋野一族である海野氏の分家筋だと言われ、真田町(現 長野県上田市真田町)を本貫としており、真田本城跡、真田屋敷跡等が残されている。
しかし、実はそれだけではなく、真田家のもう一つの重要な拠点として上野国沼田がある。
沼田の沼田城にも一時真田家当主が在城したり、重臣を城代として置いていた。
上田城主となった時代まで沼田支配は続いていたが、松代転封と共に沼田は廃城となった。

そう考えると、沼田は真田家にとって重要な拠点であったことは間違いない。
信州上田から上州沼田は離れているにもかかわらず、沼田を領有していたことは、もしかすると真田の本当の本貫は沼田ではなかったかと思うのである。
海野家とは本来関係のない、独自の一族だったのではないか。
但し、海野氏と領地を接していたことから、何かしらの婚姻によって縁戚関係にあったのではないかと思われる。

確かに、海野家でも真田家の家紋である、六文銭、州浜、雁金を使用していたことから考えると、確かに姻戚であったことは確かなようだ。

ちなみに、幸村の家系は仙台伊達家中に残り、信州小県郡和田の名主家、越後上杉家中に続いた。

実は、未だに真田家の本当の家系は解明されていない。
多分、真田家のみならず、徳川将軍家はじめ、どこの家でも本当の家系は謎のままであろう。
源氏とか平家とか藤原とか、そんなきれいに繋がるはずはないであろう。
そうでなかったら、日本の武家は全員親戚ということになってしまう。
江戸時代、幕府が各家に作らせた寛政重修諸家譜によって、家格を高く見せるために作り変えられてしまったのだ。

薩摩の島津家などは、元々信州塩田地方の土豪であった。

何処の家もそんなもんである。

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