かつては大坂城といった。
現在の大阪城と豊臣時代の大阪城とは規模が違い、江戸幕府による改築で大幅に拡張され、石垣も新たに積み直された。
そのため、豊臣時代の大阪城の遺構は、現在ではほとんど見ることが出来ない。
従って、大阪城と言うと豊臣の城と思ってしまうが、実は徳川の城なのである。
江戸時代には大阪城に、大阪城代が置かれ、江戸幕府の大阪本社の役目を果していた。
大阪城代は京都所司代と共に関西に置かれた重職で、主に西国(近畿、中国、四国、九州)における諸大名の監視を行うための重要な拠点であった。
豊臣時代の古絵図では、天守閣が黒壁であったが、江戸時代に再建された天守閣は城壁に変えられた。
豊臣恩顧の大名の城の多くは黒壁であることが多い。
一方、徳川方の城は白壁が多いといわれている。
それは、大阪城が黒く、江戸城が白かったということに起因しているのだそうだ。
大阪城のある場所は、元々奈良時代の古墳があり、その後、石山本願寺が建てられていたが、織田軍と石山本願寺との合戦により焼失、その跡地に大阪城は建てられた。
豊臣秀吉の死後、秀頼の代に大坂夏の陣で豊臣大阪城は消失、その後、徳川幕府によって再建されたわけである。
江戸時代には度々焼失しては再建されることの繰り返しであったが、寛文5年(1665年)落雷によって焼失して以降、天守は再建されなかった。
昭和5年(1930年)天守再建が着工され、太平洋戦争中の空襲も免れて現在に至る。
この、現在ある天守は、豊臣時代、徳川時代の混合の創作天守であり、初層から4層までは徳川時代の白、5層目は豊臣時代の黒という具合だ。