城下町より下にある珍しい城、「小諸城」

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長野県小諸市(ながのけんこもろし)にある珍しい城跡である。
普通、城というものは城下を見下ろす場所、または街の中心に位置する平城や平山城が主だが、小諸城は城下町より低い位置にあり、しかも千曲川(ちくまがわ)の断崖絶壁を自然の要害とした場所にある。
穴城(あなじろ)と呼ばれている特殊な造りになっている。

小諸城の歴史は古く、旭将軍木曽義仲(あさひしょうぐんきそよしなか:源義仲(みなもとのよしなか))の家臣である小室太郎光兼(こむろたろうみつかね)が建てたのが始まりである。
その後、武田信玄の家臣、山本勘助(やまもとかんすけ)、馬場信房(ばばのぶふさ)らが拡張し、現在の形に整えた。
別名を酔月城と呼ばれていた。

甲斐武田家滅亡後は仙石秀久(せんごくひでひさ)が五万石で入城。
仙石氏が上田に移封されると、与板藩(よいたはん)から牧野氏が移封されて入城し、明治を迎える。

明治3年には懐古園(かいこえん)と言われ、今に至っている。
春には満開の桜が美しい。

小諸城には、大手門、三の門以外現存する建築物は残っていない。
立派な天守台があるが、寛永3年(1626年)に金箔の瓦で葺かれた三層の天守閣は落雷で焼失して以降、幕府の許可が下りず再建されなかった。

現存する大手門は、慶長年間から元和期(1596年〜1623年)仙石秀久によって創建された。
大手門は、明治期には民間に払い下げられ、料亭や小諸義塾の仮校舎として使用されていたが、平成になって小諸市に寄贈された。
約5年をかけて平成の大修理、復元修理を経て創建時の姿に甦っている。

三の門も慶長年間から元和期に仙石秀久によって創建された。
寛保二年(1742年)に千曲川の大水(戌の満水(いぬのまんすい))によって城下町の一部と共に流失したが、明和二年(1765年)に再建された。
何れも国の重要文化財に指定されている。

また、小諸城は、関ヶ原の戦い時に徳川秀忠が上田攻めの際に本陣とした城でもある。

話は横道にそれるが、関ヶ原合戦時の徳川秀忠による上田攻め、所謂(いわゆる)神川合戦(かんがわがっせん)。
徳川勢三万で上田城を総攻撃したが結局陥落させることが出来ず、徳川秀忠は関が原に間に合わず、父家康に大叱責されたと言われている。
当時の上田城の城主は真田昌幸、智謀の将といわれていた昌幸の策にまんまと秀忠ははまってしまったというわけだ。

しかし、最近の郷土史家の研究によると、神田合戦は本当にあったのか疑問視されている。
もっと言うと、徳川秀忠三万の軍勢が本当に上田城を攻めにきたのか、その事実は本当はなかったのではないかと言われている。
そう、確かに戦った形跡がないのだ。
上田近隣を通過したことは確かだろうが、上田城を攻めねばならぬほど重要であったかと言うと甚だ疑問である。
わざわざ立ち寄って上田城にちょっかいを出す必要はなかったのではないか、というよりその意味が見いだせない。
私は思うのだが、これは後世の作り話ではないだろうか。
通過しただけなのに、真田方が話を誇張したのではないかと思われる。

同時代に関が原合戦があって、片や各武将の本陣跡が特定され、討死場所や首塚や胴塚が特定されているのに、神川合戦の跡地には何も残っていない。

それよりも古い、武田信玄と村上義清の合戦の地、上田原の合戦跡地にはそれぞれの武将の討死場所や首塚、胴塚が特定され看板も立っているというのに。
それを見ても、うーんと考え込んでしまうのである。

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