織田信長とその家系

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織田信長というと、俳優の役所広司さんや吉川晃司さん、渡哲也さんのような剛毅なイメージがあると一般的は思われているが、実際は繊細でインテリ、頭がキレ、細やかな心の持ち主であったと思われる。
若い頃は確かに歌舞いていた時期もあったと思われるが、基本的には服装にも細かく配慮し、おしゃれな人だったのだろう。
怒りやすく(短気)、配下の者たちには非常に厳しく、自分にも厳しく、考え方は合理的且つ先進的で、いち早くヨーロッパの軍事制度を採り入れ、街づくりも経済も西欧諸国のようにしたかったのだろう。
つまり、洋服を着たり、葡萄酒を飲んだり、キリスト教の布教に寄与したりと西洋かぶれであったようだ。
旧態然とした日本の伝統的な制度や文化、国家の有り様を壊したかったのではないか。
少々生まれて来るのが早かったと言わざるを得ない。

しかし、自分中心の世の中をつくりたかった彼にとって、配下の者は手足でしかなかったため、相手の感情も顧みずプライドを傷つけ、面子を潰してしまうことが多々あり、やはりそれらのことが結局は自身を滅ぼす引き金になってしまったのではあるまいか。
但し、一方で羽柴秀吉の浮気に泣いていた正室のおね(ねね)の相談に親身になって耳を傾け、秀吉に対して「おねほどしっかりしている者はいない。大事にせよ」と叱責している文書が残されているのだが、そういうところを見ると、臣下の者たち個々をしっかり観察し、それそれの性格を把握し、適材適所で人を生かす術を心得ていたのではないだろうか。

こうして見てみると、本能寺の変については、信長の血を徹底的に絶やそうとする強い恨みにも似たものを感じる。
やはり残虐性に対する恐怖と恨みなのだろうか。
比叡山焼き討ち、自己の身内(兄弟、叔父や叔母、甥等)を手にかけ、徳川家康の嫡男に切腹を命じ、家臣の身内が人質になっているにも関わらず見殺しにした等々、そういうものに対するそれぞれの念があったのかもしれない。
信長の嫡男であった信忠の子 秀信は、関ヶ原の合戦で西軍に属したことにより改易、高野山に送られ断絶。
次男 信雄(のぶかつ)の四男 信良が天童藩二万石、七男 信高の系統では嫡男 高重が幕臣(旗本)として二千石を与えられ高家旗本(この子孫がスケートの織田信成さんと言われている)、九男 信貞は次男の貞置が継ぎ、一千石の高家旗本として、それぞれ明治維新まで続いた。

※高家・・・江戸幕府における儀典や典礼を取り仕切る役職で、主に足利将軍家以降の名家が取り立てられた高家旗本で大名同格であった(今川、吉良、武田、畠山、有馬、戸田等26家があった)

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