江戸幕府第三代征夷大将軍徳川家光公は、第二代征夷大将軍徳川秀忠公の次男であるが、将軍正室(御台所:みだいどころ)の子として将軍になったのは、徳川将軍15代中、初代征夷大将軍徳川家康公、家光、第十五代征夷大将軍徳川慶喜公の3人のみである。
特筆すべきは、家光の乳母が春日局(福)であることであり、福は明智光秀の重臣斎藤利三(さいとう としみつ)の娘であるということだ。
家光は、秀忠の正室お江与(剃髪後は崇源院:織田信長の妹、市(いち)と浅井長政との間にできた長女)つまり江(ごう)の実の子であったにもかかわらず、母、江は家光の弟、忠長(ただなが)を溺愛し、しまいには忠長を将軍の座に据えようとしたことすらあったと言われている。
これら一連の件に腹を立てた春日局は、駿河の駿府城にいる家康に、江の行状についての報告と、家光を次期将軍にするというお墨付きをもらいに行った。
家康は隠居所駿府城から腰を上げ、江戸城に赴き、秀忠、江を前にし、はっきりと竹千代(家光の幼名)が次期将軍になるのだと公言した。
春日局と江の仲が良くなかったことは広く知られたことである。
そもそも春日局の父は明智光秀の重臣であり、江は明智光秀の謀反によって本能寺で殺されたと言われている織田信長の姪という関係性からだとの説があるが、それだけで実の子をそこまで疎ましく思うものだろうか。
最近になって古文書が発見されたのだが、実は家光は家康と春日局との間にできた子であったということが記されている。
春日局の異常なまでの溺愛ぶり、単身突然隠居したとはいえ前将軍で大御所である家康への面会ができたことは、一階の乳母に到底できることではなく、何か特別な身分というか関係でないと出来得ないことだと思われる。
つまり、家光の実母であり、家康の側室ではなかったかということである。
古文書の信憑性については、今後の調査が望まれるところであるが、少なくともこれらのことを総合して見るに、事実である可能性が非常に高いと思われる。
家光は、慶安4年(1651年)4月20日江戸城内で出生した。
享年48歳。
亡骸は日光の輪王寺に葬られた。
日光に葬られているのは、家康と家光だけである。
戒名は大猷院(だいゆういん)。