武田信玄 3

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嫡男武田太郎義信(たけだたろうよしのぶ)は、天文7年(1538年)武田信玄の嫡男として生まれ、天文19年4月8日今川義元の娘を正室に迎えた。
永禄7年(1564年)7月武田義信配下の重臣である飯富虎昌(おぶ とらまさ)、長坂源五郎、曽根周防守(そねすおうのかみ)らが、武田信玄暗殺を企てたとの罪から甲府の東光寺に幽閉され、切腹させられた、というものである。

武田大膳大夫信濃守晴信入道信玄公(たけだだいぜんだいゆうしなののかみはるのぶにゅうどうしんげん)は、大永元年(1521年)11月3日甲斐守護家甲斐源氏嫡流として生まれ、甲斐武田家第十九代当主となる。
信濃、駿河、西上野、遠江、三河、美濃、飛騨の一部を領有し、絶大な権力を振るった。
元亀4年(1573年)4月12日に京へ上る途中、信濃国駒場(現 長野県下伊那郡阿智村)で死去した。
享年53歳、持病の喀血(労咳(結核))が悪化して亡くなったという。

三方ヶ原の合戦では徳川家康を脱糞させながら敗走させたことで有名である。
連戦連勝で武田信玄に勝てる者はいなかった。
嫡子、武田四郎勝頼公(たけだしろうかつより)に対し「自分の死を3年間日秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること」と遺言したことも知られている。
戒名は、法性院幾山徳栄軒信玄。

徳川家康公も尊敬してやまなかった武田信玄公は、私にとっても師である。

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