いま、NHK大河ドラマで放映されている「麒麟がくる」の主人公、明智光秀。
主君、織田信長に対して謀反を起こし、京都本能寺において殺害したとされている。
但し、信長の遺体は確認されなかったと伝わっている。
さて、この明智光秀であるが、正直謎が多く、詳しいことは資料が乏しく定かではない。
生年月日も諸説あり、定かではないが、天正10年(1582年)6月13日に死亡したとの記録は残っている。
出自は美濃(今の岐阜県)国守護 清和源氏の土岐(とき)氏一族である明智氏に生まれたと言われるが、実際はどうであっただろうか。
幼名を彦太郎、通称を十兵衛、別名を惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)、号を咲庵と称した。
官位は従五位下(じゅごいのげ)日向守(ひゅうがのかみ)、戒名を秀岳院宗光禅定門という。
私が思うに、光秀という人物は、相当頭が良く、秀才であり、文武に長け、教養高い人物であったのではないだろうか。
足利将軍家にも仕え、朝廷とのやり取りや、諸儀典や作法にも通じていたことから、尊敬されつつも、どこかで信長を田舎者として見下していたのではないだろうか。
そういう態度というものは、自ずと目につき鼻につくもの、信長も徐々にそういうところが目につき、疎ましく思っていたのかも知れない。
最終的に光秀は謀反に及ぶのだが、特定された要因は不明のままである。
実のところ、憶測ばかりで、本当の理由はわかっていない。
諸説あるが、特定に至る資料が未だ発見されていない。
近年、信長の首塚や胴塚、墓が発見され、本能寺の変の際にどのように遺体を運び出したかを克明に記した文書が発見されている。
私見では、光秀はやはり足利将軍家、朝廷、徳川家康の共謀により、その実行役として動いたのではないかと思っている。
豊臣秀吉の大返しも、事前に知っていなければ物理的に無理である。
家康のブレーンであった寛永寺の天海が、光秀ではなかったかとする説についても否定はできない。
謎に包まれた天海の出生、生い立ち、百歳を超えていたであろう長寿であったこと、天海発案の日光東照宮の瓦に明智家の家紋である桔梗があしらわれていることや、近くに明智平なる地名があること等、
光秀と同一人物である可能性を一概に否定できないのである。
今後の資料発見に期待したい。