
神社やお寺に参拝するのに正装するべきだとか、サングラスは外すべきだとか、肌が露出している服は避けるべきだとか、いろいろ言う人がいるが、私はそうは思わない。
本殿や内陣に上がって特別に参拝したり、厄除けの祈祷を行ってもらうとき、その他供養してもらうときだけ正装すれば良いのであって、普段は普段着、平服であってもまったく構わない。
Tシャツや短パン、ビーチサンダルやタンクトップ、ジャージなどでもよいのだ。
参拝は通常一般的には神社では拝殿、寺院では本堂で行う。
そこは誰でもいつでも気軽に参拝するためにある場所だからである。
神も仏も正装でなければ来るなとか、そんなことは制限していない。
そんな厄介な決め事は人間が勝手に作ったことである。
神仏の参拝の門扉はいつでも、如何なる時も開いている。
いつ如何なるときも誰でも気軽にお参りできなければならないし、そういう場所が神社仏閣なのである。
仕事帰り、農作業帰り、遊んだ帰り、そんな時のついでで良い、気軽にちょっと参拝できる場所でなければならない。
正装でなければならないとか、襟付きのシャツを着るべきだとか、無駄に無意味に敷居を高くしてはならない。
そして勝手にルールを造らないでいただきたい。
最近、テレビを観ていると、まったく間違った参拝をしているシーンがある。
ああいう番組は事前に調べたり、専門家から指導を受けないものなのか?
公共の電波で放映されるのにそんなことで良いのだろうか。
先日もテレビドラマで警察官の階級章が間違っていることをNHKさんに指摘したのだが、何の反応もなかった。
受信料をきちんと支払っているのに。
ただ、指摘した次の回から制服を着て出るシーンがなくなっていた。
ついに最終回まで。
最近の時代考証はメチャクチャで、もっと勉強しろと言いたい。
大河ドラマでも袴に家紋を入れているが、あれは江戸時代前期の形である。
幕末にあれはないだろう。
ドラマとは言え、最低限の史実には忠実であって欲しいところだ。
話を元に戻そう。
日本人のみならずアジア人は型にこだわり過ぎるきらいがある。
そして心が置き去りになってしまっていることが多いのではないだろうか。
そして型にはまり過ぎ、それを省略したいと考え、本来の意味から逸脱しているのではないかと思うことも多々ある。
最後に、賽銭は投げて放ってはいけない、それは「ほらよ、くれてやる」と言うことと同じ意味になってしまい、とても失礼だ。
そういう大人、しかも老人を見かけるが、悲しいことだ。
賽銭は、まず一礼し、上から落とすように賽銭箱に入れるのだ。
決してほおり投げてはいけない。
目上の人に物を渡すときに投げますか?
投げませんよね。
そういうことです。