世界平和と神の世界

世界平和は誰もが希求するところであり、何より尊いことである。
争いのない平和な地球を維持していかねばならない。
ただ、一方で、この世に人間が存在する限り、永遠の平和は望めないということも考えられる。
なぜか、人間は個から所有する生き物だからだ。
所有するものが生ずれば、それを守らなければならない。
守るためには力が必要になる。
兄弟姉妹でもそうだが、どちらかの所有物が欲しくなるものだ、するとそこには奪い合いが生ずる。
人間は子供から大人まで、すべからくそういう部分では変わらない。

他人のものが欲しくなる、欲しくなれば奪いたくなる、奪われたものは取り返そうとする、そこに争い(武力衝突)が生ずる。
個人、家同士、都道府県、市町村、国と国、常に競争したり、お互いに比較し、それが争いの種となる。
争いの元となる所有物、つまり個の存在を否定し、全ては国家の所有物であるとする考え方を以て社会主義が生まれたが、結局人間の本質までは変えられない。
どうやっても、人間は所有してしまうし、そもそもそういう生き物なのだ。
いつも座る場所、いつも居る部屋、家、土地、地区、街、市町村、都道府県、国そして領土と、徐々に拡大され、そして他国との戦に発展する。
人間とは悲しいかな、その存在自体が悪なのかもしれない。
いや、人間の存在、即ち争いは必然であり、受け入れる以外ないのかも知れない。

ちなみに、日本に武士という存在が起こったのも上述考え方に拠るところが多分にある。
当時は豪族(ごうぞく)といって、邑(村)という一つの生活集団を外敵から守るため、村内の勢力のある者が自警団として武器を持つ集団を組織した。
この豪族が各村々に起こり、今度は互いに領地拡大を目論み、戦が起こり、弱肉強食の時代へと移行していった。
力ある者は領地を増やし、やがて大名となって、日本各地に武士集団が発生することになったのだ。
その中でも各国で唯一力のある武士は、幕府から守護職に任命されたわけである。

理想を掲げ、どんなに平和や平等を説き、仏国土や神の国を具現化しようとしても、それは飽くまで理想以外の何ものでもなく、現実は叶わぬことと断言できる。
それは当然だ、そういう世界として人間界(人間道場)をシステム化しているのは、何を隠そう神だからである。
平和を説くのも神ならば、争いを起こさせているのも神なのだ。
神の存在を勘違いしてはいけない。
慈愛に満ちた優しさだけではなく、鬼や悪魔のような怖さも一体で神なのだ。
善悪、優しさと怒り、そして恐怖、それらを併せ持っておられるのが神の存在。

世界平和、それは永遠に叶えられない標語でしかない。

こうしている間も、この地球上では必ずどこかで争いが起こっている。
国と国との紛争や内戦も常に起こっている。
争いのない日、人が殺されない日は一日とてない。
世界平和が完了した時、それは正に人類が滅亡したときであろう。

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