忠臣蔵に想う

忠臣蔵とは人形浄瑠璃(文楽)及び歌舞伎演目で、1748年に初演された仮名手本忠臣蔵の通称。
江戸時代の元禄年間に起こった仇討ちをモチーフに作られたものである。

元禄14年3月14日(1701年4月2日)播磨赤穂藩主(はりまあこうはんしゅ) 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城本丸御殿松之大廊下において、高家旗本(こうけはたもと)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に対して刃傷に及んだ事件である。
江戸城内における抜刀は厳に禁止されており、その禁を破った浅野内匠頭は即日切腹させられ、播州浅野家(ばんしゅうあこうあさのけ)は改易(かいえき:お家取り潰しのこと)。
一方、吉良上野介はお咎めなしとされた。

喧嘩両成敗でなかったこと、主君浅野内匠頭が即日切腹であったこと、内匠頭の弟 浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)によるお家再興も叶わなかったこと等の不服から、浅野家家臣(四十七士)らは仇討ちに及んだ。

私が思うに一藩の藩主、会社で言えば社長である。
その配下には数千人の家臣がおり、またその家臣には家族や一族郎党がいる。
上野介に罵詈雑言を浴びせられたり、勅使を迎える饗応役としての必要な情報を教えてもらえなかったりしても、配下の者たちを路頭に迷わせるような行為は我慢する必要があった。
感情にまかせて前後不覚に陥ってしまった浅はかさの代償は大きい。
何があっても内匠頭は我慢しなければならなかったのだ。

内匠頭の仇を討った家臣たちは、確かに武士として忠義を尽くしたとは思うが、上野介にとっては甚だ迷惑であったろう。
上野介が内匠頭に対して行ったといわれている仕打ちは、実際にあったことか否か、実は定かではない。

そもそも、教えを乞うべき浅野家が、吉良家に贈り物をしなかったことに根に持って内匠頭に対して難癖をつけたことに起因しているとの説もあるが、
まあ、普通に考えてみれば、これから教授してもらう相手に手土産を持参するのは一般的であり、当たり前のことだろう。
特に江戸時代などは当然のことではなかったか。
そのような当たり前のこと、要するに礼儀を欠いた浅野家側に非があるのではないかという考え方も当然出る。

ただ、一説には、吉良家の領地も浅野家の領地も塩の産地であったが、赤穂の塩の方が人気が高く、吉良家の塩は色が黒く劣悪だということで、赤穂の塩ほど人気がなかったということで、それに対する嫉妬があったのではないかとも言われている。

上野介は三河にあった領地の領民、そしてその子孫は、今でも名君として慕っていたし、今でも慕っている。

つまり、内匠頭の短気が正しく損気であったと言うことに他ならない。
藩主であるという自覚が足りなかったのだ。
また、勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)の指導者(高家は幕府の儀典・儀礼を司る家柄であり、旗本であったが大名同格)であった上野介に謝礼も贈らなかったことも怒りを買う一つの原因であったのではあるまいか。
現に、当時、同じく内匠頭と共に饗応役に任じられていた伊予宇和島藩支藩の伊予吉田藩藩主 伊達若狭守宗春(だてわかさのかみむねはる:後改名して村豊(むらとよ))は、予め上野介に贈り物を送り、教授を乞い、筋道を通したことで何事もなく無事に役目を勤め上げた。

浅野家の家臣を哀れにおもう。

浅野家中にも有能な人材が多くおり、殊に筆頭家老であった大石内蔵助は一体何をしていたのかと思ってしまう。
伊達若狭守に対しては、特に上野介は辛く当たることはなかった。

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