武士のはじまり

源平藤橘(げんぺいとうきつ:源氏・平氏・藤原氏・橘氏)の流れを汲んでいることになっている多くの武家だが、実はそんなことは稀であり、後で取って付けたようなものなのである。
そもそも、江戸時代に幕府によって寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)作成の折に、勝手に系図を作り替えた家がほとんどだ。
源平藤橘を出自としていることが、もし本当であったとしたら、日本の武家は全員親戚同士ということになってしまう。

源氏や平氏のように、確かに天皇から別れた武家もある。
例えば源氏は天皇の皇子が臣下になる際に天皇より賜った姓であり、平氏も同じく皇族から臣下になったものに贈られた姓である。

多くの武士は元々農民であった。
農民が一族、一村の田畑を他の部落の農民から守るため武装化したのが初期の極めて初期の武士集団のはじまりと言えよう。
それを土豪や豪族という地方有力者に発達した。
その後、大化の改新(645年)によって土地は全て朝廷のもの(国・天皇)となり、貴族主体の政治が進むと荘園という農園をそれぞれ貴族や有力寺社が所有するようになると、それらを管理させるために地元の土豪や豪族などを採用した。

鎌倉時代になると守護・地頭が置かれ、荘園支配権の奪い合いが目立ち始め、それをきっかけに武士の台頭が始まることになる。
守護とは鎌倉幕府、室町幕府時代に置かれた、一国の軍事指揮官・行政官であり、今で言うところの知事のようなものである。
官職名に長門守(ながとのかみ)、備中守(びっちゅうのかみ)、安房守(あわのかみ)等というものが、その国の守護職に与えられたものである。(信濃権守(しなのごんのかみ)、陸奥権守(むつごんのかみ)、出羽権守(でわごんのかみ)等の権守とは、副守護つまり副知事のようなものを指す)
上野介(こうずけのすけ)、肥後介(ひごのすけ)、豊前介(ぶぜんのすけ)等という官職名は補佐役を指す。
今で言えば助役、政務官のような存在である(介・助・輔・祐という字は補佐を意味する)。

地頭とは鎌倉幕府・室町幕府が荘園、国衙(こくが)領を管理するために設置した職で地頭職という。

室町時代も後半になると群雄割拠、下克上が起こり、戦国時代へと突入する。
武士と雖も、この頃はまだ武士道などというものは確立されていなかった。

武士道とは一体何なのか。
武士という身分に『道』という字を付けることによって、一つの精神世界をそこに見出す運動が始まったといえよう。
つまり、江戸時代になって泰平の世となり、武士も暇になったということだ。
前述の通り、武士(武家)は皇族を守るための戦闘集団、つまり軍隊であり、護衛や武器を持って戦うことが役目であった。
いかに戦うか、いかに多くの人間を殺せるか、そんなことを考えねばならなかった武士に『道』は関係なかった。

柔術は柔道、剣術は剣道、弓術は弓道、空手は空手道、華は華道、茶の湯は茶道、書は書道、というように、泰平の世に於いてそれぞれに精神世界が体系づけられていった。
それは日本人独特な考え方によるものと思う。
日本人の美徳は形のない中にこそ求めるという、特殊な考え方がある。

武士道が確立された江戸時代、武士たちは刀や槍を筆に置き換え、もはや武器は無用の長物となってしまったし、実際使う機会などほぼなかっただろう。
だが、武士は軍隊、征夷大将軍は軍司令官、要するに鎌倉時代以降の武士政権は、今のミャンマーやキューバ、北朝鮮と同じ軍事政権であったということである。
要するに武官政治なわけで、考え方としては、天皇から一時的に戦乱の世をまとめあげて、ある程度のところで政権をお返しし、その後は公家(朝廷)による文官政治に戻さねばならなかったわけだが、平家時代から武士の力が強くなってしまい朝廷が圧倒されてしまったというわけだ。
それ以降、朝廷は任命権者としての役割しか持たない、武士に食べさせてもらっているかのような時代が長く続いた。

江戸時代末に大政奉還が行われ、千年以上続いた軍事政権は終わりを遂げた。
武士が担っていた政権を、朝廷にお返ししたわけだ。
第十五代征夷大将軍徳川慶喜公は、尊王思想があった水戸徳川家の出身であるから当然とも言えようが、元々自ら将軍になった暁には、朝廷に政権をお返しするつもりであったらしい。
ご立派なご英断であったと思う。

しかし、明治維新を実現したとか言っている志士といわれる者達もまた武士であったから、初期の明治政府は武家政治であったといっても過言ではなかろう。
野党が政権を取っても何もできなかったように、結局明治新政府は江戸幕府時代の役人を呼び寄せて政権運営を行った。
つまり、慶喜公が行おうとしていた文官政治から文民政治への移行が正しかったというわけである。
幕末の志士たちは無駄なことを行っただけであり、時代の流れを遅らせてしまったことにほかならない。

この時、一番得をしたのは誰か、それはやはり西洋の手先であった岩崎弥太郎であろう。

武士によって始まった武家政治は、結局武士自らの手によって幕が引かれたのである。

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