初めて韓国を旅したのは、いまから25年も前であったろうか。
当時はまだ金浦空港しかなく、空港に降りた瞬間、空気がキムチの香りというか、ニンニクの香りがした。
ソウルの街中には、ところどころに軍隊がおり、兵士は銃を手にして隊列を組んで歩いていた。
朝鮮戦争中であることを彷彿とさせる状況であった。
その後も3度ほど韓国を旅してきたが、行く度に軍隊は減り、街は綺麗になり、活気がみなぎり、街行く人々の生き生きとした表情と東京によく似た街に変化していった。

朝鮮半島の田舎の風景は郷愁を誘う。
国破れて山河あり、時代が移り、国が変わろうと山や川の風景は何も変わらない。
昔のままである。
懐かしくてなつかしくて、いつまでもその場所に佇んでいたい気分になる。
埼玉の高麗神社がある付近や、岡山の誕生寺のある久米地域は、古代朝鮮半島からの渡来人が多く移住した地域だが、そういう土地の風景は決まって朝鮮半島の田舎の風景と同じように見える。
当時、移住してきた渡来人たちは望郷の念にかられ、故郷と似通った風景の土地に住み着いたのではないだろうか。

韓国で絶対に忘れてはならないことは、日本の皇族梨本宮家から朝鮮王家に嫁がれた李方子(リ マサコ、イ バンジャ)のことである。
大正9年(1921年)4月28日に、旧大韓帝国(朝鮮王朝)の皇太子 李垠(イ ウン)とご結婚された皇太子妃である。
長男 李晋をもうけるも誕生翌年に死去され、一度流産の後、李玖(イ ク)をもうける。
戦時中は日本の王公族に列せられていたが、戦後、日本の朝鮮領有権喪失に伴い、王公族の身分も喪失し、邸宅や財産を売却して生計を立てていた。
大韓民国初代大統領 李承晩(イ スンマン)によって韓国帰国を妨げられ、日本国籍も韓国国籍も失い、流浪の王族になってしまったのである。
その間に李垠は脳梗塞で倒れ、寝たきりになってしまう。
李承晩退陣後、朴正煕(パク チョンヒ/ 朴槿恵前大韓民国大統領の父)が大韓民国大統領になると、朴大統領の計らいにより夫妻は韓国への帰国を果たした。
帰国後はソウルにある王宮のひとつ、昌徳宮(チャンドックン)内の楽善斎にお住まいになられ、昭和45年(1970年)李玖が亡くなられた。

その後も李方子妃殿下は、妃殿下として昌徳宮に住まわれ、韓国に帰化し、障害児教育に取り組み、助産婦の技術向上と、在韓日本人婦人会の名誉会長等を務められ、韓国の福祉に献身的に貢献され、国母として国民から慕われた。

日本人でありながら、韓国の地に韓国人として生きた偉大な方がおられたことを我々は絶対に忘れてはならない。

李方子妃殿下は、平成元年(1989年)4月30日に逝去された。享年87歳。葬儀は大韓民国皇太子妃の準国葬として行われ、日本から三笠宮崇仁親王ご夫妻が参列された。
後に大韓民国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。

ご子息の李玖氏は、旧王族の集まりである全州李氏大同宗約院(チョンジュイシテドンジョンヤクウォン)の総裁であった。
かつて李王家邸があった赤坂プリンスホテルに宿泊し、日本にお住まいであったが、2005年7月16日心臓麻痺により、同ホテルで死去された。
李玖には子がいなかったため、李王家の直系は絶えてしまった。

日本と韓国とは本来、深いつながりがある。
朝鮮半島の南北朝鮮人は、自らの国を戦勝国として祝うなど、あたかも日本と戦争をしていたかのようなことを言っているが、日本と朝鮮は戦争などしていない。
豊臣秀吉が朝鮮出兵を行って以降、日本は朝鮮とは交戦していない、確かにそのような事実はない。
捏造された歴史認識の上に生き、それをまともに信じている朝鮮人が悲しい。
学校や政府、親や友人が言っていることをやみくもに信じるのではなく、疑問を抱き、自ら学ぶことをなぜしないのか。

むしろ、日本に統治されて近代国家の道を歩むことになったことを感謝してもらいたい。
原人同様な野蛮な生活を人間らしくさせ、全国民に教育を施し、道や街を整備し、山や川を整備し、水道や電気などライフラインを構築した。
朝鮮人は自ら日本人との融合を望み、自ら日本名を名乗った(日本政府が強制的に日本名を名乗らせたというのは誤りである)。
そして自ら志願して日本軍人として戦地に赴いたのだ。
朝鮮の一部の人間の言っていることに惑わされてはいけない。

日本は朝鮮半島を植民地にしたわけではない。
日本同様に一等国に発展させ、日本人も朝鮮人もなく分け隔てなく共に働き、酒を酌み交わし、共に笑い、国家予算を投じて発展させてきたではないか。

また韓国へ行きたくなってきた。
私の韓国の旅は、なつかしい記憶を辿る旅なのかもしれない。