伝教大師最澄

天台宗の開祖である。
平安時代の僧で、近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(大津市)にお生まれ、俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といった。
中国に渡って仏教を学び、帰国後に比叡山延暦寺を建立した。
出自は中国後漢の皇帝であった孝献帝の末裔と言われ、応神天皇の御世に渡来したと伝えられている。

伝教大師は、総合仏教宗派である天台宗を開き、釈尊の教えを忠実に偏ることなく教えを広められた。
それ故、浄土宗も日蓮宗も天台宗から派生している。
天台宗ではすべての経典を所依としているため、南無阿弥陀仏のお念仏も唱えれば南無妙法蓮華経のお題目も唱える。
そして忘れてはならないのが、密教も持ち帰って来られ、真言宗の東密、天台宗の台密と称されるようになる。
言わば仏教の大学のようなものであったのだろう。

天台宗は天皇家との結びつきも深く、天台宗の最高位を座主(ざす)と呼び、その座主に就かれるのは元々皇族と決まっていた。

天台宗の総合仏教的な発想は素晴らしいのだが、残念なことは時の政権に密着していたことであろう。
天皇の御威光を後ろ盾に、勢力を拡大し、僧兵までも擁し、各地に広大な領地をもって政治も動かす勢いであった。
僧たちは酒池肉林に溺れ、贅の限りを尽くし、到底僧侶とは言えない堕落した。

皇族や公家などに与える影響力は凄まじく、天台座主は天皇をも凌ぐ絶大な権力をもっていた。

織田信長は勢力を増す天台宗に対して刃を向けた。
比叡山の堂塔を焼き討ちし、僧侶から女子供にいたるまで殺戮を命じた。

この時、来日していたルイスフロイスは自己の日記の中で、この比叡山焼き討ちを見て織田信長の死を予見したと言う。

織田信長の行った、この比叡山焼き討ちに対して、賛否両論がある。
確かに堕落して有頂天になっていた天台宗に対する制裁は必要であったと思うが、貴重な堂塔を燃やしてしまったことや僧侶の命を多数奪ってしまったことは大いなる過ちであったと思う。
女子供の命を奪ってしまったことも勿論許されることではないが、僧侶の命は奪ってはいけない。
経典にも記されているが、僧侶の命を奪う行為は無間地獄に落ち、どんなに時間が経とうとも地獄から這い上がれることはないという。

信長は比叡山焼き討ち以外にも、伊勢長島一向一揆(一向宗)焼き討ち、石山本願寺焼き討ち等多くの一向宗(浄土真宗)の門徒や僧侶を殺戮した。

天正10年(1582年)織田信長は京都本能寺において、明智光秀の謀反によって討たれてしまった。

ただし、私はこの本能寺の変については別の意見があるが、それはまた改めて別の機会にお話したいと思う。

今も総合仏教宗として、多くの仏教徒の拠り所になっているのが天台宗であり、比叡山である。
伝教大師のご威光は今でも生きておられ、多くの人々をお救い下さっている。

ちなみに、信州善光寺を浄土宗大本願と天台宗大勧進が運営している。
それ故に善光寺は宗派を問わず、誰でも受け入れてくださる寺院なのである。

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