豊臣秀吉の子、秀頼は生きていた!?

豊臣秀頼と言えば、太閤豊臣秀吉の次男であり嫡子であった、淀殿(茶々)の子である。
大坂夏の陣で秀頼とその母淀殿は、大阪城天守閣の北側、山里曲輪の蔵の中で火を放って自刃したとされており、秀頼の子、国松(くにまつ)も乳母と田中六左衛門という家臣と共に城から脱出を図ったが、捕えられ慶長20年(1615年)京都の六条河原で斬首され、名実ともに豊臣家は滅亡した。

だが、実は密かに秀頼は真田信繁(幸村)に連れられ逃げたと言われている。
脱出の際、肥後熊本の加藤忠弘(加藤清正の子)が用意した船の底に隠れて薩摩に到着したといわれる。
また、豊後日出藩主木下延俊(北政所(おね)の兄弟である木下家定の4男。豊臣一族と認められ、豊臣姓を許されていた)や、おね(高台院)が支援していた可能性もあった。

京都で流行ったわらべ歌で秀頼が逃げたことが唄われ、真田三代記にも秀頼逃亡の行が記され、鹿児島市の谷山地区には秀頼の墓と言われるものが残っているそうだ。
また、日田郡誌や寺の文書にも秀頼生存説を示す記録があるという。
豊臣方最大の武将、島津家が匿っていたのではないだろうか。

秀頼は身長197cm、体重161kgの肥満体の大男で、大酒呑みであったといわれている。
時々、谷山の村に下りてきては無銭飲食をしたり、暴れまわったりしていたという。

さて、秀頼の子の国松だが、日出藩木下家では、藩主木下延俊(きのした のぶとし)の遺言により、四男木下延由(きのした のぶよし:但し、幕府へは延次(のぶつぐ)と届け出されている)は、速見郡立5千石を分知され陣屋を構えた。
日出藩は3万石であった、本来延俊は遺言で、延由に1万石を与え、大名とするよう伝えたが、元々石高の低い木下家では1万石も分知してしまったら藩が立ち行かなくなるということから、家老の長澤市之丞(ながさわ いちのじょう)が遺言の「聞き間違い」であるとして5千石しか分知しなかったと言われている。
後に長澤市之丞は君命に背いたとのことから、自ら切腹した。
立石木下家は旗本として徳川家に仕え、延由は参勤交代の途中45歳でなくなったが明治まで続き、当代に至っている。
本名は木下縫殿助豊臣延由(きのしたぬいのすけとよとみののぶよし)。

延俊が遺言で1万石をも分知しようとしたこの延由こそ国松であったと言われている。
主家に対する礼を尽くそうとしたのであろう。
立石木下家19代目当主 木下崇俊氏曰く、「国松は薩摩に落延びた」説を一子相伝の重要事項として代々口伝として伝わってきたと言う。
世子が10歳位になると、言い伝えを暗唱させられたそうで、つまり最重要事項であるため文書には残せなかったのだという。

豊臣秀吉の血統は現在も続いているということになるが、実は一説によると、秀頼は豊臣家の家臣である大野治長(大蔵卿局の子)と淀殿との間にできた子ではないかとの説もある。

飽くまでも伝説の域を出ないが、真実味のある話ではないだろうか。

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