今に続く隠れキリシタン

安土桃山時代から江戸時代、キリスト教には禁教令が敷かれ、信者つまり切支丹(キリシタン)は弾圧された。
そのため、信者は仏像に似せたマリア像や、神社のご神体に十字架を似せたものなど偽装して信仰し、また、人目を避けてこっそり夜陰に紛れてミサなどを行っていた者たちを隠れキリシタンという。
江戸時代は特にキリシタンに対する弾圧が厳しく、日本全国津々浦々の寺院が住人の戸籍管理を行い、宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)によって常にキリシタンであるか否かの住民監視を行っていた。
その最たるものが踏み絵であり、聖母マリアやイエス・キリストの彫り物が施された板を一人一人踏ませ、踏めない者は捕縛され処刑された。

意外なことに、多くの隠れキリシタンは踏み絵を躊躇なく踏んだという。
その理由は、ただの絵であり、板であり、ましてその絵の主はマリアでもキリストでもなく、信仰とは別物であるとしたからだそうだ。
それはそうだ、処刑されるのがわかっていてみすみす踏まないなどということがあろうか。
中には信仰を守るため、踏まなかった者もいたと思うが、それはごく少数であったのではあるまいか。

興味深いことに、明治6年(1873年)禁教令が解かれ、潜伏する必要がなくなっても、隠れ信仰を守り、カトリック教会に戻らない者たちが今もいるという。

現在は、それはそれで一つの宗教という考えに確立されているのだと思う。
特に隠れキリシタンが多い地域は、長崎県、熊本県、大分県。

なぜ、日本では豊臣秀吉以降、キリシタン弾圧が激しくなったのか、それはキリスト教の宣教師たちはスペインの軍隊の先鋒隊だったからである。
先鋒として、まずは、宣教師を送り込み、キリスト教に改宗させ、逐次情報を本国に報告させるという諜報活動(スパイ活動)によって、頃合いを見計らって大挙して軍隊が送り込み、植民地化し、場合によっては武力を以て占拠することが常套手段であった。
豊臣秀吉と徳川家康(江戸幕府)は、キリスト教宣教師の危うさを把握できていたことは素晴らしい情報収集能力であったと思う。

特筆すべきは、江戸幕府の領国政策である。
これが近代まで日本を守ってきたことにほかならない。
江戸幕府のこの政策がなければ、我国は今頃とっくに他の国になって、キリスト教国になっていたのかも知れない。

織田信長は、キリスト教(バテレン)に対して非常に寛容であり、安土城下に教会を造らせたり、キリスト教の布教を許可した。
私が思うに、織田信長の暗殺、つまり本能寺の変とは、このキリスト教に対する寛容さが原因ではなかったかと思われてならない。
仏教界や神道界、朝廷や西洋による日本侵略を危惧していた大名諸侯、そして何より足利家など、危機感をもった人々による暗殺ではなかったか。

明智光秀が実行し、その後、豊臣秀吉に討たれたことになっているが、織田信長亡き後、キリシタンを排除し、禁止令を発布した秀吉の施策を見ても明智光秀を討つだろうか?
秀吉との合意の下で光秀は実行し、それを支援していた勢力があったということではないかと思うのである。
当然、徳川家康も承知のことだったであろう。

歴史というものは、時の権力者によって書き換えられるものであり、後世に歴史を知るのは残された記録でしかない。
その唯一の記録が都合の良いように、若しくは何かしらの事情で歪曲されていたとしたら、それを信じるしかあるまい。
ただ、その裏には、必ず定説を覆す真実が潜んでいるものである。
まだまだ研究を進める必要があるが、近い将来真実が暴かれる日がくることを願ってやまない。

話は戻るが、鎖国政策は正解であったということだ。
そうでなければ、とっくにこの国は西洋列強によって植民地と化していたであろう。

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