ブータン国王夫妻が我が国に来られたことは記憶に新しい。ブータン王国と言えば国民の幸福度なるものが非常に高いことで知られている。
もし、本当に国民の大多数が、現状の生活に幸福だと思っているのだとしたら、それはとても素晴らしいことだと思う。
先進国であり経済大国である日本のように、ライフラインは整っておらず、全般的にインフラが整備されていないブータンで、満ち足りた幸福いっぱいの生活をしている国民は、インフラが整備されている我が国に来て便利この上ない生活を体験してもなお自国での生活を幸福であると心から言えるのだろうか?
水道の蛇口をひねれば水や湯が出て、電気ポットに水を入れれば熱湯になり、洗濯機があり、水洗トイレがあり、エアコンがあり、電話やテレビ、パソコンまで、ほぼほぼ一家に全て揃っている日本で物理的に満ち足りた生活を経験してから帰国して、それでもなお幸福であると言えるのか?
物質的に満たされていることだけが幸せではない、精神的に満たされてこその幸せであることは十二分に承知しているが、人間はそんなに高等ではない。
この世に人間として生きるからには、やはりまずは物質的に満たされてこその幸福だと思うはずではないだろうか。
幸福の専門家であるブータン人であれば、幸福の核心を十分に理解し会得していると信じたいのである。
懐かしい日本の風景を今に残すブータン、日本人によく似た容姿と服装が我々の郷愁を誘う原日本を彷彿とさせる、正に理想郷と位置付けて考えてしまう。

さて、幸福とは、幸せとはいったい何者か?何をもって幸せと言うのか?答えは簡単で、『自分が幸せだと思ったら、それが幸せなのだ』。
物質的に恵まれた生活を謳歌して幸せだと感じることも、貧しい中にも精神的に満ち足りた暮らしをして幸せだと思うことも、その思いがつまり幸せなのではないだろうか。

幸せは歩いてこない、だから歩いて行くのではない、今、その場が自己の考え方次第で幸福にもなり不幸にもなる。

いま生きている、この場所、この生活、この自分、それらを幸せだと思うことが幸せなのではないか。
「幸せになりたいな」と、なりたいことを考えるのでなく、幸せだと思うこと、つまり発想の転換が大事なのではないか。

『吾は唯足るを知る』(釈尊)「足ることを知らぬ者は富めりと雖(いえど)もしかも貧し。足ることを知る者は貧しと雖も心安らかなり」。足ることを知ることこそが幸せであり、尽きることのない欲望を追い、常に満たされないと思う心こそが不幸なのではないか。

幸福をひたすら追い求めるだけの人生で終わるのだけはごめんである。