幸せを呼ぶ宗教宗派による先祖供養

仏壇に位牌をお祀りして日々お香を手向け、朝には炊きたてのご飯と、朝一番最初に汲んだ水をお供えする。
そして新鮮な生け花をお供えすることも忘れてはいけない。
造花はダメ、ドライフラワーもダメ、必ず生気のある生花でなければならない。
言い忘れたが、鉢植えもダメ。
生花をお供えできなければ、特にお供えする必要はない。

仏壇の中央須弥壇の最上段には、各家の宗旨のご本尊様や、信仰する神仏像や掛軸を安置する。
天台宗は釈迦牟尼如来像または阿弥陀如来像、真言宗は大日如来像、日蓮宗は髭曼荼羅ご本尊と日蓮聖人像、浄土宗は阿弥陀如来坐像、浄土真宗は阿弥陀如来立像、臨済宗や曹洞宗は釈迦牟尼如来像である。
神道は神道用の祖霊舎にて中央に信仰する神社のお札をお祀りし、仏教の位牌に準ずる霊璽を安置する。
難しいことはよい、ひたすらその宗派の念仏や唱題、題目をお唱えし合掌する。
神道は二礼二拍手一礼(合掌はしない)。

これは主に仏教だが、お盆、春秋のお彼岸には必ずお墓参りを行う。
いただき物や旬の食材が手に入った時は必ず一度仏壇や神棚にお供えしてから家族といただく。
いつまでもお供えしておく必要はない、お供えした後、お線香をあげるか、二礼二拍手一礼を行ってから直ぐに下げてよい。
神仏やご先祖様は、その食のエキスだけを吸い、物理的に食べてしまうわけではないので。
皆でいただけば厄払いにもなり、御符(ごふう)になる。
お盆には迎え盆でご先祖様を自宅にお迎えして食事や盆踊りでもてなす。
盆踊りとは、先祖霊と共に踊るというシャーマニズム的な古来原始的な風習に基く。
そして、送り盆の日には、またお墓に行って送り火を焚き、お線香をお供えしてお帰りいただく。

お彼岸は、入りと明けにそれぞれ墓参を行い、団子をお供えして一緒にその場でいただく。

特別な行事の時だけ供養すればよいのではない。
常に日頃からの供養が大切なのだ。
ご先祖様の命日には生前好きだったものをお供えしよう。

最近になって一般の家でも著名人や芸能人でも、葬儀を家族だけで心のこもった形で執り行うことが多くなった。
従来のような、見せる葬式から本当の意味の葬式へと変わってきた。
これは本当に良い傾向だと思っている。
その裏では確かに寺院は檀家を失い、葬式などへ出る幕が減り、収入が減少して生活苦に陥っているなどと言う話を耳にする。
だがそれは本当のあるべき姿に戻ってきたと喜ぶべきことであると思っている。

江戸幕府が寺院を戸籍管理の機関として活用するようになり、檀家制度が成立した。
檀家制度はつまり住民登録を行うことと同じであり、檀家に加入しない家は存在しなかった。
全戸が必ずどこかの寺院に登録され、生まれてから死ぬまで、いや、死後も墓地の管理と供養を行った。
そこに住民の宗派を選択する自由はなく、住んでいる場所によって決められた。
そうやって為政者によって寺院も生活が保障されていた訳である。

江戸幕府が終焉を迎え、明治新政府樹立以降現代まで江戸幕府の制度が当たり前のこととして連綿と続いてきた。
不思議なことである。
神社も居住する場所の氏神様の氏子に勝手に加えられ、ここでも村人や町内の人々によって相互に監視管理された。
氏子制度も何の疑いもなく現代まで続いている。

日本人の宗教観は、こういった歴史的経緯からも信仰というよりは生活の一環として存在する当たり前の日常という訳だ。
だから葬式は仏式、結婚式はキリスト教、初詣は神社、クリスマスを祝い、宗教が混在としている矛盾すら公然と受け入れるようになってしまった。

心のこもった本来の信仰と先祖供養がやっと当たり前にできる時代に変わってきたことを心より歓迎する。

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